はじめに:なぜ「福祉」は捉えにくいのでしょう?
「福祉」と聞くと、皆さんは何を思い浮かべますか?高齢者の介護、障害のある方のサポート、子育て支援、あるいは生活に困っている方への援助など、人によってイメージは様々だと思います。このように「福祉」のイメージが多様なのは、決して言葉の意味が曖昧だからではありません。私たちが暮らす社会の変化とともに、福祉が向き合う課題が広がり、複雑になってきたことが大きな理由です。
この連載では、少し捉えどころのない「福祉」というテーマについて、その歴史や今の姿、そしてこれからの未来像を、3回にわたって分かりやすく解き明かしていきます。
多様なイメージと専門性の「壁」
福祉の全体像を掴みにくくしている一つ目の理由は、その分野の広さと、それぞれの分野がとても専門的になっている点にあります。もともと「welfare(良い暮らし、幸福)」という英語から来た「福祉」という言葉は、日本で使われるうちに「社会の制度によって生活を安定させること」といった、より具体的な意味合いで定着していきました。
そして、高齢者、障害者、子どもといった分野ごとに、それぞれ独自の歴史をたどりながら専門的な制度が作られていきました。その結果、例えば介護の現場では「内服介助(お薬を飲むお手伝い)」や「ケアプラン(介護の計画書)」といった専門用語がたくさん使われるようになり、初めて関わる人にとっては少し難しい印象を与えてしまうかもしれません。このように分野が細かく分かれていることが、福祉全体のつながりや共通の理念を見えにくくしているのです。
どんどん複雑になる現代社会の悩み
二つ目の理由は、現代社会が抱える悩みそのものが、昔ながらの福祉の枠組みでは対応しきれないほど複雑になっている点です。例えば、高齢の親(80代)が働けない子ども(50代)の生活を支える「8050問題」や、親の介護と自分の子育てが同時にのしかかる「ダブルケア」、そして社会的な孤立といった問題は、「高齢者」「子ども」という一つのカテゴリーだけでは解決できません 6。
こうした問題の背景には、かつて当たり前だった家族や地域での支え合いの力が弱まっていることがあります。親が孤立した結果、子どもへの虐待が起きてしまったり、誰にも看取られずに亡くなる「孤立死」が起きたりするのは、その悲しい現実の表れです 。特に、新型コロナウイルスの流行は、人と人とのつながりをさらに希薄にし、複雑で多様な悩みを抱える人々を増やしてしまいました 。
このような状況から、最近では「福祉ニーズの多様化・複雑化」という言葉がよく使われるようになりました。この言葉は、もはや国や自治体による公的なサービス(公助)だけでは限界があり、私たち住民一人ひとりの努力(自助)や、地域での助け合い(共助)をもっと大切にしていこう、という社会の変化を後押ししています。これは、福祉制度が時代に合わせて進化している証拠とも言えますが、一方で、公的なサービスの役割を見直す動きの表れでもあるのです 。
日本の社会福祉は、こうして歩んできました
日本の福祉制度は、まっすぐ一本道を進んできたわけではありません。社会の理想と、経済や人口の変化という現実の間で、サービスを充実させたり、見直したりを繰り返しながら、今の形になってきました。
近代福祉のはじまり
日本の近代的な福祉は、明治時代にさかのぼります。最初は民間の人々による慈善活動が中心でしたが、1874年の「恤救規則(じゅっきゅうきそく)※」という決まりが作られるなど、少しずつ制度の形が整えられていきました 。大正時代になると、活動はより専門的になり、1918年には大阪で「方面委員制度」が始まります。これは、地域に住む人が、同じ地域の生活に困っている人の相談に乗る仕組みで、今の民生委員制度のルーツとなっています。
※恤救規則:日本初の全国統一的な救貧法令のこと。この規則は、貧困に苦しむ人々を救済することを目的としていましたが、その対象は「無告の窮民」、つまり親族や地域社会からの支援が期待できない場合に限り、国が救済を行うというものでした。
戦後の発展と「福祉六法」体制
第二次世界大戦後、新しい日本国憲法のもとで、福祉国家としての骨格が作られていきました。1946年の生活保護法(旧法)、1947年の児童福祉法、1949年の身体障害者福祉法からなる「福祉三法」がその土台です 。そして、日本が高度経済成長を遂げる中で、1961年には「国民皆保険・皆年金」が実現し、すべての国民が医療保険と年金に入れるようになりました 。1960年代には、知的障害のある方、高齢者、母子家庭を支える法律も加わり、「福祉六法」と呼ばれる体制が完成したのです。
この時代の象徴的な出来事が、1973年に実現した「老人医療費の無料化」でした。これは、日本の福祉が非常に手厚くなったことを示すものでした。
制度の見直しと介護保険の誕生
しかし、この手厚い福祉の時代は、長くは続きませんでした。二度のオイルショックと急激な高齢化で医療費が膨れ上がり、「このままでは医療費で国が破綻する」とまで言われるようになったのです。この大きなプレッシャーが、福祉政策の転換点となります。まず、1983年には老人保健法ができ、わずか10年で老人医療費の無料化は終わりを告げ、一部自己負担の制度へと戻りました 。
そして、この流れの集大成が、2000年に始まった「介護保険制度」です。これは、高齢者介護のあり方を根本から変える、歴史的な大改革でした。それまでは、行政が税金を元手にサービス内容や入る施設を決める「措置(そち)制度」でしたが、これからは、利用者が保険料を払い、サービス提供者と対等な立場で契約を結んで、自分でサービスを選ぶ「契約制度」へと変わったのです。この歴史の流れは、手厚い保障という社会の理想が、経済や人口の変化という現実に直面したとき、制度そのものを見直さざるを得なくなるという、日本の福祉がたどってきた道のりを物語っています。
【第1回のまとめ】
- 「福祉」が分かりにくいのは、高齢者、障害者、子どもなど分野が多岐にわたり、それぞれが専門的になっていること、そして現代社会の課題が「8050問題」のように複雑化していることが理由です。
- 日本の福祉は、明治時代の慈善活動から始まり、戦後の経済成長とともに手厚い制度が作られましたが、その後、財政的な理由から見直しが進められました。
- 特に2000年に始まった「介護保険制度」は、行政がサービスを決める「措置」から、利用者が自分で選ぶ「契約」へと変わる大きな転換点となり、現在の福祉の形に大きな影響を与えています。
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