障がい者福祉の歴史 ~隔離保護から自立支援、そして共生社会の実現へ~

日本の障がい者福祉の歴史は、社会が「障がい」をどのように捉え、向き合ってきたかの変遷の物語です。それは、ときに慈悲や保護の対象として、ときに排除や隔離の対象として扱われながら、当事者たちの粘り強い運動によって「権利の主体」として認識され、「共生社会」の実現を目指す長い道のりでした。

ここでは、その歴史を大きく4つの時代に分けて解説します。

第1章:古代から近代へ – 慈悲、排除、そして「保護」の始まり

【古代~近世】

古代の日本では、障がいは不浄なもの、あるいは個人の因果応報と見なされる側面がありました。一方で、仏教の伝来とともに、障がい者や病人を救済する思想も生まれます。聖徳太子が設立したとされる四箇院(しかいん)には、病人に薬を施す「施薬院」や、身寄りのない人々を保護する「悲田院」が含まれており、公的な救済事業の原型とされています。

民間では、障がいのある子どもを福をもたらす存在と考える「福子(ふくご)思想」のような伝承があった一方、見世物の対象とされるなど、差別的な扱いも存在しました。

【明治時代~戦前】

近代国家を目指す明治政府は、富国強兵のスローガンの下、非生産的と見なされた人々を社会の周縁に追いやる傾向がありました。しかし、制度の整備も少しずつ進みます。

  • 恤救規則(じゅっきゅうきそく、1874年): 国による最初の救貧法で、働けない高齢者などと共に、障がい者(当時は「癈疾(はいしつ)」と呼ばれた)が救済の対象として初めて明記されました。しかし、内容は極めて限定的で、慈恵的な意味合いが強いものでした。
  • 傷痍軍人(しょういぐんじん)への恩給制度(1875年~): 西南戦争などで負傷した軍人に対し、国が責任を持って生活を保障する制度が始まりました。これは、特定の障がい者に対し、国家が責務として支援を行う先駆けと言えます。
  • 精神病者監護法(1900年): 精神障がい者を「監護」の対象とし、警察の管理下に置きました。これにより、多くの精神障がい者が「私宅監置」、いわゆる座敷牢に閉じ込められることが合法化され、非人道的な状況が戦後まで続くことになります。これは治療ではなく、社会秩序維持のための「隔離」を目的とした法律でした。
  • 盲学校及び聾唖学校令(1923年): 盲・ろう教育について、各道府県に学校設置が義務付けられ、障がい児教育の制度化が進みました。

この時代は、一部で教育や保護の制度が生まれつつも、全体としては障がい者を「保護し、管理する対象」と見なす考え方が主流でした。

第2章:戦後福祉の確立と当事者運動の胎動

【戦後改革と福祉三法の時代】

敗戦後、日本国憲法が制定され、「基本的人権の尊重」や「生存権(第25条)」の理念が障がい者福祉の新たな基盤となります。特に、戦争で急増した戦傷病者の社会復帰は大きな課題でした。

  • 身体障害者福祉法(1949年): 障がい者福祉の根幹となる法律です。身体障害者手帳制度や更生援護(義足や更生相談など)の仕組みが作られました。
  • 精神薄弱者福祉法(1960年、現:知的障害者福祉法): 知的障がい者を対象とした専門の法律が制定されました。
  • 精神衛生法(1950年): 精神病者監護法が廃止され、私宅監置が禁止されました。しかし、精神科病院への強制入院(措置入院)の権限が強化され、隔離収容主義的な性格は色濃く残りました。

これらの法律により、障がい種別ごとの縦割り支援体制が確立しましたが、一方で、福祉は行政がサービス内容を決める「措置制度」であり、当事者の意思が尊重されにくいという課題がありました。

【優生保護法の影と当事者の声】

戦後の福祉史を語る上で、旧優生保護法(1948年~1996年)の存在は避けて通れません。この法律は「不良な子孫の出生を防止する」という目的を掲げ、障がいなどを理由に、本人の同意なく不妊手術(優生手術)を行うことを認めていました。戦後の人口増加や食糧難を背景に制定され、障がい者に対する根強い差別意識から1996年まで存続し、多くの人々から子どもを持つ権利を奪いました。

このような社会状況の中、当事者たちが自らの権利を求めて声を上げ始めます。

  • 全国青い芝の会(1957年結成): 脳性まひの当事者たちが中心となり結成。「親と子の別れを制度化せよ」「われらは愛と正義を否定する」といったラディカルなスローガンを掲げ、親や社会からの同情や憐れみを拒否し、優生思想を鋭く批判しました。彼らの運動は、後の障がい者権利運動に大きな影響を与えます。

第3章:「ノーマライゼーション」と権利擁護の時代へ

【国際障害者年と意識の転換】

1960年代後半から、デンマークで生まれた「ノーマライゼーション」の理念(障がいのある人もない人も、等しく当たり前の生活を送る権利があるという考え)が日本にも紹介され始めます。

この流れを決定的にしたのが、1981年の「国際障害者年」です。「完全参加と平等」をテーマに、障がい者の人権や社会参加への機運が世界的に高まり、日本国内でも大きな意識改革のきっかけとなりました。施設に収容するのではなく、地域社会で共に生きるという考え方が広がっていきます。

【権利のための闘いと制度改革】

当事者たちの運動は、より具体的な社会変革を求めるようになります。1977年に「青い芝の会」がバスの乗車拒否に抗議して行った「川崎バス闘争」は、公共交通機関のバリアフリー問題を社会に問いかけました。

こうした動きを受け、制度も大きく変わっていきます。

  • 心身障害者対策基本法(1970年、1993年に障害者基本法へ改正): 障がい者施策の理念や方向性を定めた基本法。1993年の改正で精神障がい者も明確に対象に含まれました。
  • 養護学校の義務化(1979年): これまで就学が免除・猶予されてきた重度の障がい児にも、教育を受ける権利が保障されました。

この時代は、障がい者が「保護されるべき存在」から、権利を主張し、社会参加を目指す「主体」へと大きく転換した時期でした。

第4章:自己決定と共生社会の模索 – 2000年代以降

2000年代に入ると、福祉の仕組みは「自己決定の尊重」をキーワードに、劇的な変化を遂げます。

  • 支援費制度(2003年): それまでの行政がサービスを決める「措置」から、利用者が自らサービスを選び、事業者と「契約」を結ぶ方式へと大きく転換しました。これは、障がい者福祉における自己決定権を保障する画期的な一歩でした。
  • 障害者自立支援法(2006年): 支援費制度の課題(財源不足や地域格差など)を解消するため、身体・知的・精神の3つの障がいを一元的に支援する制度としてスタートしました。しかし、サービス利用料の原則1割負担(応益負担)が「障がいが重いほど負担が増える」として当事者や家族から強い批判を受け、大規模な訴訟に発展しました。
  • 障害者総合支援法(2013年~): 自立支援法への批判を受け、利用者負担の軽減や、対象者に難病患者を追加するなど、制度が見直されました。名称から「自立」が外され、より包括的な支援を目指す姿勢が示されています。
  • 障害者差別解消法(2016年施行): この法律は、日本の障がい者福祉史における大きな到達点の一つです。障がいを理由とする「不当な差別的取扱いの禁止」と、障壁を取り除くための「合理的配慮の提供」を、行政や事業者に義務付けました。これは、障がいの原因を個人の心身機能に求める「医学モデル」から、社会の側にある障壁(バリア)こそが問題だとする「社会モデル」へと、国としての考え方が転換したことを象徴しています。

まとめ

日本の障がい者福祉の歴史は、古代の慈恵的な救済に始まり、近代国家の成立と共に「隔離・保護」の対象とされ、戦後の人権思想の中でようやく福祉制度の枠組みが作られました。そして、何よりも重要なのは、その制度を変え、社会の意識を動かしてきたのが、常に当事者自身の「声」と「運動」であったという事実です。

「保護」から「自立支援」へ、そして「権利擁護」と「共生社会の実現」へ。その歩みは今も続いています。法律や制度は整いつつありますが、人々の心の中にある無意識の偏見や、社会に残る様々なバリアをなくし、誰もがその人らしく尊厳をもって生きられる社会を築くための挑戦は、これからも続いていくのです。

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